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アンカー 1

[リメイク版] アマチュア無線草創期に活動

J 4 C J 大前 茂 翁にインタビュー

1933-1939

「オールドタイマーが遺した一冊のアルバム」No.6に丸刈りのJ4CJ 大前 茂さんが写っていたのを憶えておられますか? 98年前の1935年5月、アマチュア無線の交友が数枚のモノクロ写真に残っていました。
編注:この記事の元は2005年10月12日、「オールドタイマーが遺した一冊のアルバム」第8回です。今回はリメイク版として新たに発掘した写真や資料を加えて再編集しました。

by S.Kawai JA1FUY/NV1J

大前さんに逢いたい!

この記事「オールドタイマーが遺した一冊のアルバム」をご覧になったJH1VVW 石井 登さんが、もしかすると大前OT(オールドタイマー)が健在かも知れないと、当時の住所「広島 高田郡」を手がかりにインターネットで検索すると、それらしい人が浮かんできました。
 

意を決して電話を掛けると推測はみごと的中 『昔、アマチュア無線をやったことがある。』 、なんとご当人から直接お話を聞くことができました。 お年を伺うと90歳!当時20歳として、それから70年、ぴたり合います。
 

なんとしてでもオールドタイマーにお会いして開局当時の状況を聞きたくて、恐る恐るインタビューを申し込むとありがたいことに快諾をいただきましたので、千載一遇のチャンスとばかりに2005年10月10日早朝小雨が降り続く中、羽田空港を発って広島新空港へ日帰り取材を記者(JA1FUY)と共に敢行しました。
 

空港近くの日産レンタカーへ直行、ここでブルーバードを借りて1時間余の道のりをドライブ、山陽自動車道を経由して中国自動車道の高田インターチェンジを下りて走ること10分余り、目的地の広島県の北西部、標高190mの山間地へ。「緑と花と果実のまちづくり」を目指す甲田町に和のたたずまいの老舗「大前醤油本店」がありました。呼び鈴を鳴らすと、「はい」という声と共に背筋をピンと伸ばしたご当主の大前さんが笑顔で迎えてくださいました。

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J4CJ (1933-1939) 大前さんのシャック

ジャンク屋と顔なじみに

大前醤油本店(広島県安芸高田市甲田町高田原1055)

応接間に通され、挨拶もそこそこに当時の写真をお見せすると、懐かしそうに手に取ってじっと見入り
『確かに私の写真です』ときっぱり。 『送信機と受信機は”無線と実験”の記事を参考に作りましてね、 部品は近くの通信第2連隊の放出品でたいてい間に合ったよ。それもかます*に入って出てきたな、ジャンク屋によく通っていたので顔なじみになってね。』 と破顔一笑。青年期の写真からタイムマシーンに乗って70年前を鮮やかに思い出されたようです。大前翁の記憶力の確かさに敬意を表しつつ、今も昔も変わらぬジャンク好きのアマチュア気質を確認できて嬉しくなりました。 (*かます=むしろの袋)

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大前醤油本店(広島県安芸高田市甲田町高田原1055)の応接間で記者のインタビューに応じる大前さん(左)

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1935年6月 K6CQV 中西さん(右端)を迎えて左からアルバムを遺されたJ4EA 岡本さん、J4CJ 大前茂さん(当時20歳)、背後はJ4CM 松原さん。

老舗の 2代目

大前醤油本店の会長として現役とお見受けしたが、大正10年(1921年)創業の醤油醸造3代目子息・直行氏(社長)と共に家業に励んでおられました。 『当時の無線機一式とQSLカードは倉庫にしまいこんで、昔のことだから簡単に見つからない』 と表情を曇らせました。

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大前醤油本店の醤油工場で撮影

こちらの取材意図を見抜いておられたのはさすがというほかはなく、倉庫の片隅に眠っているかもしれない、古の手づくり無線機をひと目見たいという気持ちを抑えてインタビューを終えました。この後、母屋に続く醤油工場を見学させていただきましたが、「7月に家内を亡くしまして・・・」とぽつり、表情に寂しさが漂っていました。
 

本醸造醤油は『伝統と技術を活かして、本物の味を大切に原料の大豆はすべて遺伝子組換えでない原料を使っている』とのことで、根強い愛用者が全国におられるようです。また 『特選しょうゆ、ごまドレッシング、 がんこ仕込み田舎みそなどが主力です。』 と聞かされました。
 

ワープロを見事に操り「手記」を書き上げられ、本誌にご寄稿いただきました。いまだ好奇心を失わない大先輩に脱帽すると共に、アマチュア無線草創期に青年時代を過ごされた大前さんに 『お元気でお過ごしください』 と申し上げて辞去しました。

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大前茂さん(90歳) 大正4年(1915年) 1月5日生。 昭和8年(1933年)7月20日 J4CJ開局、昭和14年(1939年) 2月10日まで運用。 その後、神奈川県横浜東洋真空に就職、アマチュア無線から遠ざかる。 従軍ののち昭和17年(1942年)の暮れに除隊。家業の㈱大前醤油本店を継いで現在(2005年)会長。

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《偶然見つけた写真》 JARL第 6回全国大会の記念写真(JARL NEWS MAY 1937) を一度ご覧ください。2列右から二人目、若き日の丸刈りJ4CJ大前茂青年を発見しました。中国地方からJ4CL西山さんと共に2人で参加しておられます。資料の整理中に見つけた86年前の写真です。

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大前さんは2列目右から二人目ではないかと推測されます。JARL NEWS 第62号(May 1937)より

QTC-Japan に寄せられた手記

手 記 ex J 4 C J 大前 茂

J4CTのシャック。”真空管801の威厳”と説明書きがありました

昔の懐かしい写真をお送り下さり大変ありがとうございました。ハワイより中西さん(K6KQV)が来日され、私は安佐郡古市、現在は安佐南区古市になっておりますが、下宿先と中西さんの実家と近いところにあったため一緒にに四国の高松や引田方面のアマチュアを訪問したときの写真で70年も前のことで細かいことは忘れましたが、シャックでやっているのが小生で18~19歳の時で現在は満90歳の高齢になりました。

当時、送信機はもちろん受信機も手づくりで出力5W程度でほとんど世界各地と交信ができ、夢中で取り組んでおりました。昭和11年ごろより横浜の鶴見にあった東洋真空KKという会社に勤めアマチュア無線とは縁遠くなりました。
 

熊谷陸軍飛行学校から昭和14年(1939年)、戦地で第三飛行・集団指令部通信班で航空無線関係の整備等に当たりました。当時、北京にありましたが南京に移動し、昭和17年(1942年)、シンガポールから同年8月にテンガー飛行場よりサイゴンに帰還途中、エンジントラブルで片肺飛行となりました。
 

しかも凄い振動の中で受信機は駄目になり、送信機を直し何とか送信できるようになったので、生文でサイゴン南方200キロと打電し死を覚悟しましたが、幸い小さい島を見つけしかも砂原へ胴体着陸で何とか助かりました。
 

コンドル島で日本海軍が10名ほどが警備をしており、フランスが囚人島として使用していることが後でわかりました。迎えの船が来るまで10日ばかり海軍さんの世話になりました。迎えの船でサイゴンに着き同地より南京に帰り、南京より17年の暮れに内地に着き、我が家に帰り着きました。
 

まだ書きたいことがいろいろありますが、機会があればまたの時にします。御礼が遅くなり誠に申し訳ありません。体調を崩し横になる時間が長くなりました。ではまたのときに、ご自愛ください。不一

《コンドル島について》 インターネットで「コンドル島」を検索をするとKondul Island (island(s)), Indiaというのが出てきて、なんとあのAndaman & Nicobar islands のテリトリー内にありました。この島に不時着したとすると、ハムにとって何となく意味深です。
[不一] 手紙の結びに添えて、まだ 十分に意を尽くし切れていないことを表わす語。

70年前の "百万一心碑" を探る!?

甲田町から車で走ること10分、吉田町に国史跡指定の郡山城址を訪ねました。ここに「百万一心碑」があると聞いて甲田町から駆けつけると、なんと郡山城址の奥まったところに毛利元就の墓所に向かい合う形で、その碑が建っていました。
 

地元のコンビニで若い店員に"百万一心碑”の場所を尋ねると 『知らない』 という、地元の人なら誰でも知っている名所旧跡と思い込んでいましたから、素っ気無い返事にびっくりしていると、 『吉田歴史民族資料館で尋ねてみたら』 と知恵を出してくれて助かりました。これを手がかりに目的地にたどり着くことができました。
 

はじめから郡山城址あるいは毛利元就の墓所に行きたいと言えばすぐにわかったのに、聞き方が悪かったと反省しました。ここを訪ねた理由は、70年前の丸刈り学生服姿の大前青年(J4CJ)が日系ハムの中西さん(K6KQV)を案内して"百万一心碑”を訪ねた一枚の写真が残っているからで、せっかく近くに来たのだから70年の時空を超えて、同じ場所に立ってみたいと思ったからです。

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郡山城址の観光マップ。洞春寺跡から撮影したのが右の写真。中世の城跡だけに地味なたたたずまい

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鳥居をくぐり突き当りの右が毛利元就の墓所。左側に墓所に向かい合う形で「百万一心碑」がある

インタビューの中でこのことを尋ねると 『 細かいことは忘れたが、中西さんを案内して吉田町に行きましたよ。』 と記憶が鮮やかに蘇った様子でした。「百万一心碑」の前で撮影した70年前(1935年7月30日)の写真をお見せすると、 『確かに左端が私(J4CJ)で、J4CF、J4EAの3人です』 はっきりと思い出されました。

中西さんを案内して郡山城址を訪ねるには、芸備線の甲立駅からタクシーそれとも馬車? 当時はタクシーがあったろうかなどとのんきなことを考えながら、たぶん歩いたに違いないという結論に落ち着きました。下の写真が70年前と現代の"百万一心碑”の写真です。

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左から大前さん(J4CJ)、松原さん(J4CF)、岡本さん(J4EA)の3人(1935年7月30日撮影)

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2005年10月10日に撮影の「百万一心碑」、左の写真と比べてもたたずまいが変わらない

《 百万一心碑 》

毛利元就の墓所内にあり、郡山築城の際に元就が、人柱に代えて 一日一力一心の大石を鎮めとしたという摸彫の碑が、吉田町郷土史調査会で建てられています。
 

「日を一にして、力を一にし、心を一にする」という共同一致の精神を示したものです。

(吉田町史跡・郡山城址案内図より)

あとがき

JH1VVW 石井さんの 「大前さんに逢いたい。」 から始まったオールドタイマーの足跡をたどる短い旅は、郡山城址の"百万一心碑"と向き合う形であわただしく終えました。
 

吉田町から広島新空港までのドライブに時間配分を間違えて出発間際に滑り込むアクシデントもありましたが、大きな満足感と共に満席の飛行機に乗り込むことができました。無線機材やコンピューターに満ち足りた世界に身をおく私たちには、時にアマチュア無線草創期に思いを馳せ、先駆者のご苦労を知るのも悪くないと思いました。(終わり)

Old Timer's Album「オールドタイマーが遺した一冊のアルバム」No.1~18

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