アマチュア版(続)
私の履歴書 JA0SC
吉池 弘忠(よしいけ ひろただ)
昭和 57年(1982)7月コンテストに頻繁に参加している間JA0CUV/1、熊谷OM、現JE1CKAから連絡があり、JCCC、全日本コンテスト愛好会を発足させるので参加しないかとのことで、会員に加わりました。OMとはJA0-DX-GANG時代にお付き合いがあり、この誘いはコンテスターの一員としては望外のできごとでした。
JCCC No1会報
CP/M手作りパソコン
そうこうするうちに昭和 59年(1984)1月から翌年 5月にわたり「トランジスタ技術」に「つくるパーソナル・コンピュター、菱田照久」が掲載され、組み立て基板が頒布されました。当時CP/Mに興味を持っていたこともあり、早速これを購入、マザーボード゙は自分で作り、「CPU(Z80)、メモリー、CRT、フロッピー」ボードの4枚の基板に全部品を半田コテで組み上げました。
この間にOSのCP/Mを立ち上げる「TINY BASIC」を知るため「ASCI I ISSUE #2 1977年8月号を手に入れ本気になって「マシン語」の勉強に取り組み、以後CP/Mの理解に大変役立ちました。 これを使って最初に取り組んだのが昭和 55年(1980年10月-1981年 6月)から「CQ」に掲載された「ハムなんでも教室、JA1BRS,須賀川進」の「CW解読」でした。
デュープチェックキーヤーの画面
CW READER(リスト及びフロッピー)
ローカルのJA0HE、伊藤OMと電信を送受信し合い、うまく解読ができたのですが、いざDXを受信するとノイズ゙に災いされて文字になりませんでした。 1988、1989年にはこのマシーンでCQ WWを始めDXコンテストに始めから参加したのですが、いっこうに目は出ず「参加するに意義あり」にとどまりました。 昭和 58年(1983) 5月からJA1ELY、草野OMの編集、発行による月刊ファイブナイン59がスタート、以後今日まで購読を続けています。
ASCII #2 TINNY BASIC
(その後の資料で情報の入手は、昭和 50年(1975) 3月にJA0CUV/1、熊谷OMからのJA0-DX-GANG NEWSが最初で、その後JA0BNX、水橋OMに引き継がれ、1978年10月までこれが手元に残っていました)
月刊ファイブナイン創刊号
手作りマイコンとデュープ・チェック・キーヤ-の画面
HAM JOURNAL No.33
そしていよいよ昭和 58年(1983)2月号「CQ」、同 4月のHam Journal 33号で、「PC-8001対応、CWデュープ・チェック・キーヤー、JA1KFX、西山治夫」の登場です。 PC-8001が登場したのは「パソコンの歴史」によると昭和54年(1979)12月頃となっていますから、この時期には相当普及していたものと思われます。PC-100博物館「図書館」 によると「3月のマイコンショーで華々しいデビューを飾ったのが・・・」とあります。
私は「これぞとばかり」搭載された「ダンプリスト」を手動で「逆アセンブル」して研究している間、西山さんから「アセンブルリスト」と「取扱説明書」をいただき、手垢でごちゃごちゃになるまで分析しました。もちろんCP/M手作りマイコンに移植して使用、1988年、1989年のCQ WWほかのコンテストの参加ログが残っています。 昭和60年(1985)8月 JUG-CP/M (Japan Users Group for CP/M)に入会、東京でのミーティングに何回か参加して、マシン語を本格的に勉強しました。
HONOR ROLLのPlaque
■Honor Rollの達成、DX情報収集の本格化
さて、DXCCチャレンジで私は、昭和 61年(1986) 6月に念願のHONOR ROLL 入りを果たしました。Honor Rollの歴史については「CQ」1996年2月号にJA1ADN、井原OMが「DXCC戦後再開 50周年記念 特別企画」で詳細を述べておられます。Honor Roll の基本条件は、その時の現存カントリー(現ENTITY)から 9を引いたカントリーのQSLカードをARRLに提出してこれが認められて登録されます。特別のAWARDはなく、希望によりPLAQUE(飾り額)を取得できます。
私はDXCCメンバーになって11年にして獲得したことになりますが、これは個人差があって一概に言えません。最近は猛烈なDXpeditionブームにより、この期間は大幅に短縮されることでしょう。80年代後半にいたり、パソコンとの関わりが多岐にわたります。すなわち、パケット通信の登場です。パケット通信の説明では「無線とコンピューターの結合」、「電波を使った高度なパソコン通信」と書かれています。
私がF2(パケット通信を行う場合の通信モード)の免許を取得したのが昭和 62年(1987)3月です。この時TNCをNID-80で組み上げました。 これをNECの9801Noteに繋げたのですが、この段階では現在のようなRBBS、コンタクト情報はなく、90年代に入ってからになりました。
NID-80TNC
「OPDX」、「ARLD」、「DXNL」「425DX」のDX情報は1989年の後半から、「コンタクト情報」が1993年 1月早々からコピーとして残っています。「The DX Bulletin」は1993年10月まで購読しているので、以後インターネットへの切り替えまでDX情報は、もっぱらパケットに依存したことになります。
時代は平成に入り元年(1989)2月にインターネットに接続しPC-VANに加入、始めは各種のソフトをダウンロードしてLOG(MyLOG)、JE3HHT、森さんが開発したDXTERMなどを動作させていました。 無線関係では昭和 63年(1988) 9月からFT-901&FL-2100BにアンテナタワーCRANK-22を設置現在に至っています。
筆者(JA0SC)の現用アンテナとシャック
同年(1989)8月からNECの文豪MiniーMini 5を入手してワープロながらCP/M(8ビット)とMS/DOS(16ビット)の共存するCPUを使っていることから話題になり、私もこの動きに参加、同人誌の文豪通信8号でマシン語講座を担当するとともに、前掲のCWデユーープ・チェック・キーヤーの移植を発表して自身でも1990年から1992年にかけてCQ WWなどのコンテストに参加しました。
文豪Mini 5とキーヤ-の取説、文豪通信8号
CTの日本語取扱説明書
90年代に入り平成 5年(1992)10月にJA1KFX、西山OMからCWデュープ・チェック・キーヤーのMS/DOS版「LGR」が発表されて、これを本格的にDXコンテストに使用しました。この時期アメリカで「CT」が出現(80年代後半といわれる)、この「LGR」はフリーウェアでは「CT」に負けず劣らずのソフトで、以後WIDOWSを入れるまでDXコンテストに愛用しました。CTは平成 8年(1996) 6月に購入、以来コンテストで愛用しています。英文取説を日本語にして持っています。ご希望があれば個々にQSYします。
平成 5年(1993) 1月からは 1年間JA0-DX-GANGの会長を務め、DXerとしてはこの上ない名誉の勲章を授かりました。
平成 8年(1996) 5月にはペンティアム100のデスクトップ・パソコンを組み上げWINDOWS 95を使用、翌 6月からはBIGLOBEに加入、同年12月にはDREAM*NETに移行してインターネットに本格的に参入しました。
■The Daily DX #1 Issue
The Daily DX #1Issue
翌9年(1997) 4月には「The Daily DX」がスタートするとの案内に接し、早速申し込みました。年間 50週間、週5日発行、土日を除くで36US$という振れ込みでした。第1報はその後 3月にE-mailで到着、従来の週1回の情報提供(OPDX,425DX,ARLD)から原則毎日みれるインターネット時代の申し子の誕生でした。趣旨説明の中で「The Daily DX news arrives before the information is out-of-date. 」(情報が時代遅れになる前に到着するNEWS)とあります。
これにより「The Daily DX」でのDXぺディション情報と「パケットクラスターによるリアルタイム・コンタクト情報」と「インターネットクラスターによるDX Summit、The Japan DXクラスター」と並んでDX情報の双璧の役割を果たしています。 手前味噌になりますが、"SSTV DX NEWS"もこの趣旨を生かすとの目標で提供しているつもりです。
90年代も後半に至り「デジタルモード」の運用が開始されました。すなわち、SSTVの開始です。1997年12月号「CQ」にJG1VEM、小出OMのW95SSTVの解説記事をみて、CPU 100MHzの組み立てたパソコンに入れて受信すると見事に画像が入り、これはいけると思い翌年 3月にF5免許を取得して運用を開始しました。たまたま長野県で「全国SSTV大会」が行われたこともあって急速にはまりこんでいきました。
■DXぺディションの開始、#1Honor Roll の完成
平成10年(1998) 9月にSONY VAIO NOTEを購入、これを持参してその年の11月にMariana I.(サイパン島)KH0/JA0SCで最初のDXぺディションを行いました。この時は旅行社の設置したシャックでの運用でした。
以後3D2HY、フィジーに行き2000年代に入り、XU7ABE、カンボジア(この時は単独でしたが旅行社に随行して)に行きました。翌2001年にはA35SC、Tonga,、5W0OHY、Samoa と 3D2HYのトリプル遠征をこなしました。ついでT22SC、Tuval と9N7SC、Nepalと都合 5 Entityをこなし、Fuji、3D2HY をツバルの前と後に運用して7か国で電波を出しました。 昨年(2002)はVK9CI、Cocos Keeling Is.、VK9LI、Load Howe I.で運用しました。今年も条件の許す限りでかけていきたいと考えています。いや、いつまで続けられるかが問題です。
■JA0SC's DXpedition 9 Entity QSL CARDS
1998~2002
QTC-JAPANのSSTV DX NEWS 第1報
この間平成13年(2001) 2月からQTC-JAPAN.COMに"SSTV DX NEWS"を提供し始めました。SSTVの振興に寄与し、自らの情報源を開放しなくてはいけないと思い、広く活用をめざしました。
と同時に自らもコンテストの経験を生かして「SSTV Contest 2001」QTC-JAPAN.COM主催に優勝、同じく「ニューフェイスコンテスト」、「アクティビティコンテスト」ともにJASTA(日本アマチュアSSTV協会)主催で優勝しました。
DXCC AWARD
さて、この稿も最後を迎えることになりました。平成14年(2002)8月にはDXチャレンジはおお詰めの「#1 Honor Roll」の登録です。1986年3月にHonor Roll に登録してから、16年の年月がかかりました。
単純に計算すれば、当時のマイナス 9 Entityを取得すればよいものを、なぜ16年も要したのでしょうか。自分でも不思議に思いますが、この間NEW Entity の増加が激しく都合20 Entity が追加されました。前回の9を加えて29 Entityをこの間にとったことになります。 それにしても懸かり過ぎですね。これは1995年にP5北朝鮮がDXCCに有効となり、この1 Entity が 7年あまりの浪費をもたらしたのです。
2002年にはADSLに加入インターネットを常時接続して、DXぺディションに情報収集におおいに活躍しています。以上ほぼ年次毎に、この40うん年あまりを振り返って見ましたが、途中つじつまの合わない点があって気がかりですので分かり次第訂正したいと思います。(おわり) 長野市松代町在住・吉池 弘忠